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夏時間の庭  必殺「画面が美し~」

夏時間の庭
最近北海道もかなり暑くなってきました。まさに夏です。ということで今日は『夏時間の庭(L'Heure d'été)』という2008年のフランス映画についてちゃちゃっと書きます。そうです、得意のフランス映画です。大好き(!?)です。フレンチノワール万歳です。ヌーヴェル・ヴァーグも万歳です。『エマニエル夫人』はなおさら万歳です。ということで『夏時間の庭』監督はオリヴィエ・アサヤス、わしがちょっと好きなジュリエット・ビノシュも出演してます。主演じゃないですが主演みたいなもんです。それともう一人、ちょっとびっくりですがカイル・イーストウッドも出てます。クリントの息子です。なんででしょうかね~。
ちなみにこの映画、オルセー美術館開館20周年記念の作品なんだって。どうでもいいけどね。
詳しくは→goo映画(ネタバレあり)


簡潔ストーリー
どういう話かというと、母親が自分が死んだら売るようにと残した美術品を3人の子どもらはどうするのか? というものです。そこにそれぞれの立場や性格、人間関係が絡んできます。
長男は美術品を売りたくないがグレた娘がいて大変。次男は中国に働きに行くから売っちゃって結構。長女の金髪ジュリエット・ビノシュもアメリカで働きながらイーストウッドの息子としっぽりやるから売る派。てことで・・・。


感想
それだけ? と思うかもですが、親の残した遺産や自分たちが育った家の存続という話は、とても重いです。どうして重いのかということもこの映画では語っています。それは世代の変化、受け継いでいく過程をどうスムーズに行うのかという「時間の流れ」を描写しているからです。「時間の流れ」というのはすなわち「死」です。人は死ぬからその所有物が残る。それが美術品だったり、イーストウッドが『グラン・トリノ』で描いていたように「魂」だったりする。
 ところがこの映画では、母親がその遺産を受け継がせようとしない。なぜなら、自分の残した所有物で息子達を縛りたくないからだ。このへんの描き方がとても上手いと思った。ていうかすごく共感できた。こういう母親いるよねって思ってしまった(母親は一人しかいないのに)。もちろんそこに至るまでの性格描写をしているからなんだろうけど、妙に納得してしまった。一人で寂しそうに生活する母親と、せわしなく働きまわる息子たちの対比。誕生パーティでの絡み加減で彼らの関係が観客にしみ込まれていく。母親は皆が自分に気を遣っていることに気付いてる。自分が愛する息子たちに出来ることはなんなのか、それも気付いてる。そう考えると、切ない。

そして物語ではそれら美術品をどうするかという局面に向かう。花を挿している花瓶ですら貴重な品らしい。だが花瓶は飾るより使ってこそだ、という『トイ・ストーリー2』みたいなことを言う。『トイ・ストーリー2』は玩具は遊んでこそだ、って感じでしたね。その辺もなかなかでした。


まとめ
・・・と、珍しく良さげなこと書きましたが、ドンパチもおっぱいもないです。いわゆるインテリ映画です。わかったふりする人が観て 「画面が美し~」とか「カメラマンがすばらし~」とのたまう系です。まあ画面が美しいだけで2時間もつわけありませんし、カメラマンの頑張りのみで全て描ける作品なんてありませんけどね。映画は総合芸術ですし。この作品はそこそこストーリーがしっかりしてるので、映像に必然性が生まれるんですね。引き立つんです。
にしても、ラストでどんちゃん騒ぎする中グレてたガキが爽やかに塀を越えてヨロシクってシーンがあるんだけど、わしは蛇足に感じてしまった。ちょっと押しつけがましさを感じたのと、そのラストシーケンスの尺が長い気がした。ここはほんの1カットぐらいの演出でいいと思う。どんちゃん騒ぎしてる中カメラがクレーンで引いてって少女が塀を飛び越えてるの。それを観て観客は静かな骨董品みたいな家が今はロックで若者たちの溜まり場に変貌したってことがわかる。世代交代ね。でもこの映画では長い。延々とどんちゃんやって、たらたら少女が森に向かう。ラストだけ妙にコッテリ演出になってしまっている。ちょっと気持ち悪かった。って、好みの問題か。


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theme : 映画感想
genre : 映画

渚にて  映画が語りかける

渚にて
ネタバレします。










なんだか最近中東の核問題がどうのこうのってニュースをみた。いやあ、ホントに核戦争だけは勘弁してほしいものだ。だって人の意思とは全く無関係に終わらせてしまうんだよ。その方があっさりしてて良いって考えもあるかもしれないけど、わしは嫌だなあ。だって普通にデートしてようが飯食ってようが映画観てようがゲームしてようが寝てようが学校行ってようが着替えしてようが、その一撃でほとんどの意思を止めてしまうんだよ。いきなり終わりが来る。いきなり終わる映画みたいなもん。なんの前触れもなく、唐突に。『ノーカントリー』みたいに。
ということで今日は核戦争後を舞台にした『渚にて(On the Beach)』という映画を紹介します。1959年の作品です(うわあ、そんな昔なのかよ)。監督は社会派の印象があるスタンリー・クレイマー、主演はニヤけ紳士(わしが勝手にそう思ってる)グレゴリー・ペックとエヴァ・ガードナーです。白黒です。白黒だからって観ない人がたま~にいるが、それはダメです。白黒の良さもあります。
詳しくは→goo映画(ネタバレありDVD観るように)


ストーリー
潜水艦の中、ドワイト艦長(グレゴリー・ペック)は部下に浮上の命令を出す。彼らは地上での核爆発を逃れ、海底を進んでアメリカからオーストラリアに到着したのだ。一方オーストラリアでは若手海軍士官のピーター(アンソニー・パーキンス)が赤ん坊にミルクを与え、眠っている妻に紅茶をいれる。彼と妻の関係性がうっすらとわかるシーケンスになっている。ピーターは家族を残し、ドワイトの潜水艦でとある場所に偵察に行く指令を受けた。ピーターはアメリカから来たばかりのドワイトを自宅に招き、大ぜいを集めパーティーを開く。でもドワイトがアメリカに妻子を残してきたことを気遣い、一人の女モイラ(エヴァ・ガードナー)を紹介する。モイラは酒に強く、知的でタフで恋多き女。パーティーでは出席していた科学者のオズボーン(フレッド・アステア)が核について男と口論になり、一同は不穏な空気になる。中でもピーターの妻は恐怖に耐えきれない様子だった。ドワイトとモイラは距離を縮めるが、彼はアメリカに残した妻子のことを決して忘れることはなかった。
そしてドワイトたちは出航する。目標は北半球の偵察で、生存者の確認や、放射線を測りに行くのだ。途中、モールス信号を受信するが、発信源に行ってみればブラインドの紐がコーラの瓶に絡まり、それが風に揺れボタンを押していたというものだった。だれも落胆した表情を見せない。もう笑うしかないから。大陸には人影はなく、放射能に汚染されている。オーストラリアにそれが降りかかるのも時間の問題なのだ。彼らは現実を飲み込み、引き返す。
オーストラリアに帰還し、それぞれが残された時間を過ごすことになった。ドワイトはモイラと結ばれることになるが、死に場所を求め部下たちと故郷へ向かう。オズボーンはフェラーリでレースに出場するという長年の夢を果たし、優勝までした。一方メアリーは気を弱くしてしまい、会話もままならなくなっている。それでもピーターは彼女の傍によりそい、ともに生きようとする。やがて放射能が人々を蝕み始める。政府は安楽死の薬を支給し、ピーターはメアリーにそっと飲ませた。


演出
核戦争後、放射能に蝕まれる中、残された時間をいかに過ごすか? 基本そのプロットなので、やはり暗い。いかにフェラーリでぶっ飛ばそうが、大人の色恋を見せつけようが、死がどうしてもつきまとう。迫る死というのが物語の中でどれほどの力を持っているかということだ。それを下手に使うと、日本の映画によく見られがちななんとも安っぽいメロドラマになってしまう。ではどうしてこの作品がそうならないのだろうか? それはきっと「そんなもんさ」と言ってのけるところにあるんじゃあないだろうか。
「そんなもんさ」というのは、感情を思いっきり突きつけてこない演出ということ。ほら、悲しいだろ! ほら、つらいよな? ほら、ずっと一緒だろ? これらのNGワードを画面と音声でムラムラ醸し出すような演出とは逆の、ほら悲しいのさ、ほらつらいのさ、ほらずっと一緒にいよう、という、何て言うか劇中内での完結で終わる演出のこと。そう、まさに映画が「語りかける」演出の事だ。
毎回言うように説明的でないというのがまさに当たりなのだけれど、時には説明的な演出が功を奏す事もある。今作では、ドワイトとモイラが結ばれるシーンがそれ。はじめ彼らは釣りに出かける。静かな渓流があると言われて出かけたのに、そこは人で溢れかえっていて、酔っ払いたちが『ワルチング・マチルダ』を音痴に歌っている。今度はホテルでロマンチックに二人でディナーなのに隣の部屋からまたもやオージーたちのダミ声の歌が響く。がっかりするドワイト。そこへ強風が吹き付け、窓ガラスを押し開ける。二人で何とか窓を閉め、仕切り直し。オージーの歌は続いていはずが、いつしかその声が美声に変わり、何とも美しいハーモニーを奏でていた。そして二人が結ばれる。これはまあもちろんダミ声がホントにプロの歌手に変わったと捉えることもできるが、どっちかというと二人の気持ちを説明した演出だとわしは思う。『華麗なる賭け』で金持ちのマックイーンが何不自由なく遊んで暮らしている中、ふと『風のささやき』を流す事によって、観客に彼の気持ちを説明する。その演出と同じ。こういう言葉じゃあない説明が映画的というか面白いところだとも思う。それは絵画などで表現されることも多々ある。まあそれは今度。


この映画も後の作品にかなり影響を与えたんだろうなあ。『ゾンビ』的な映画もそうだし、ゲームとかもね。『fallout3』とか。ていうか59年なのかあ。それでこのクオリティって、凄いなあ。金かかってるなあ。


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theme : 心に残る映画
genre : 映画

野のユリ  ね、眠くなんかないッ!

野のユリ
まあ、ネタバレします。でも昔の映画だからね~。




先日BSで『野のユリ(LILIES OF THE FIELD)』を放送していたみたいですね。1963年のアメリカ映画です。わしはこの映画、初めて観た時に居眠りしそうになりながらだったのをよく覚えて居ります。その時はまだガキだったし、そもそもクソガキな頃にどうしてこの映画を観賞するに至ったのかその経緯がさっぱりわからないのですが、とにかく初見の印象と言うのは退屈な映画というだけにとどまってました。
それからしばらく経ち、今度は高校生になってカッコつけて文芸作品とかクラシック映画を観るようになり、右も左もよくわかってない癖に何でもかんでも誉めちぎってた時期にこの映画に出会いまして、またまた鑑賞したわけです。クソガキではないけどカッコつけで文芸を観るようなガキでしたから、眠るわけにはいきません。目をばっちり開けて、耳をかっぽじってTVに向かいました。そんでもって知人との話題が映画になった時に、余裕顔で「やっぱ『野のユリ』いいよね」と言えるように、そんな事を考えながら・・・。とまあそんな思い出深い(ある意味ね)映画なんです。それが功を奏したのか、結構きちんと覚えています。今日はこの映画について書きましょう。
内容→goo映画


どんな映画?
黒人のスミスは車の故障のために、修道女たちが暮らす建物に立ち寄る。彼女たちはスミスを見て「まあ、なんてたくましいのかしら(うっとり)」とか、「うふ、いいカラダ♡」とか言ってスミスを迎え入れます。でも彼女たちはマザー以外英語をカタコトでしか喋れません。彼女らは東ドイツからの移民なんです。色々あったんでしょう、お金もなく、教会もない。けれど底抜けに明るい振る舞いに、スミスも心を許していきます。シスターはスミスに超質素な食事をわけ与え、スミスはシスターに英語を教える。それでも映画のトーンとして、スミスは食事の不満をぶちまけるし、神父はアイリッシュの酒飲みだし、カチカチに奇麗事でキリスト教を映すのではなく、ユーモアも交えたほんわかした雰囲気で展開していくので、押しつけがましくなく描かれています。そのアイリッシュの神父に旅に出ろと言われたスミスは言いつけを守り、シスターたちと別れます。そこでみんなで歌う『Amen』は力強く生き生きとしていて、観る者に圧倒的なインパクトを与えるはずです。
建設会社で働くことになったスミスは、マザーから教会を建ててくれと頼まれる。自分ひとりで建ててやる!と意気込んで取りかかるものの、周囲の人々のビッグなお世話が邪魔をして思うようにいかない。それでもスミスが現場を仕切ることで、教会は無事に建った。浮かれる周囲をよそに、スミスは浮かない顔。自分の仕事をやり遂げた彼は、シスターたちと『Amen』を歌いながら去っていく。

ざっと説明しましたが、まずはDVDを観ることをお勧めします。


テーマ
わしはこれ、最初観た時は正直なにも思いませんでした。とにかく眠い。退屈。長い。ストーリーも起伏がなく、登場人物の感情も宗教を理解していない頃のわしにとってはリアリティがなく、まるで移入できませんでした。それはぶっちゃけ2回目観た時もほぼ同じです。宗教的な事は多少の理解があるが、登場人物の感情は難しい。どうして難しいのか。それはこの映画で描かれているスミスが神であるという視点があるからです。
この物語は誰かの視点で描かれている(主観)わけではなく、それぞれの人物の視点をカメラが代弁するカタチで撮っています。それぞれと言ってもほぼスミスかマザーかぐらいなもんですが、そのマザー視点、シスター視点でのスミスが実は神として描かれています。ところが独特のトーンと主観のない視点から、どこかドキュメンタリーっぽい、一歩離れたところからマザーとスミスの関係なので、それが押しつけられたものじゃなく感じます。逆に言えば、キリストをバックボーンにしていないと理解不能になり、感情移入できません。
で、マザー達にとってはスミスは神。神がやってきて奇跡を起こして去っていく。スミスが教会を建てて去っていくという構図ですが、では最大の問題スミスは何でしょう。スミスの視点は、人間です。当然だって? すいません。
スミスの視点では、このオバサン達のところに立ち寄ってしまい、そこで食べさせてもらうわけです。ですがそのうち旅に出て、仕事も見つけ、それを生きがいにすることができました。そして自分がすべきこと(すなわち教会を建てること)を見つけ、それをやり遂げた彼は、その場を去って行きます。これは人の一生ですよ。突然この世に生を受け、始めは親に食べさせてもらう。やがて旅に出て、女つくったり喧嘩したり勉強したり働いたりして、生きがいを見つける。人は何かするために生まれてくる、自分は何をすべきか、そういうことを考え見つけ、やり遂げる。そして死が訪れる。上述したようにこの映画、教会が建った後、スミスは浮かない顔をしていました。それは、自分本位の仕事ができなかったからではなく、役目を終えてこの場を去る気持ち(死)、それを表現しているんです。
このように、一人の人物が演出上二つの役割をするのって、読みとるのが難しいんですよね。どっちなの? っていう気持ちにもなるし、それ以前に2つの役割自体に気が付けないでいる場合がよくあります。おまけに差別が多い南部が舞台で黒人が主役というと、色々勘ぐってしまいます。まあ白人からの歩み寄りだと思うのですが。



まあ結局眠かったですけどね。でも皆こういう映画に限って評価するんですよね~。なんにもわかってないくせに、ほのぼのしてていいとか、癒されるとか。そういうの聞くとガッカリしちゃいます。それだけで評価するというのは、ありえません。むしろ他に誉めるところがないというふうに受け取れてしまいます。『かもめ食堂』といっしょにしないでほしい。


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theme : 映画紹介
genre : 映画

ノウイング  アメリカにもあったよげんのしょ

ノウイング
ネタバレするかもしれないです。










暑いですねー。北海道もメチャクチャ暑いです~。こんなに暑いの初めてだって先日書きましたが、マジですよこれ。黙ってるだけで汗だくになるなんてこと今までなかったですもん。
というわけで、今日は『ノウイング(Knowing)』という映画について書きます。暑いから適当です。
監督はアレックス・プロヤス。主演は変態エロオヤジのニコラス・ケイジです。2009年公開のまあいわゆるディザスター・ムービー(災害・パニック映画)です。
詳しくは→goo映画(ネタバレなし)

ストーリーを書きましょう。
50年前、ある小学校でタイムカプセルを埋めようとしていた。子どもたちが未来の絵とか書く中、ルシンダという少女はデタラメな数字をびっしり書いていた。先生も不審そうにしながらカプセルに入れて埋めるのだが、当日ルシンダが行方不明になる。夜な夜な探すと狭い倉庫にいて、手の指から血を流している。

そして50年後、タイムカプセルを開ける記念行事が行われていた。物理学教授のジョン(ニコラス・ケイジ)の息子のケイレブがルシンダの「数字」を受け取る。父親のジョンが何気にその数字の意味を解明して(災害の日付、死亡者数)、色々と探るようになる。一方、ケイレブは耳鳴りをおぼえるようになり、自宅には黒い服の不審な人物が周辺をうろつくようになる。そしてケイレブは彼らから黒い石を受け取る。

ある日、ケイレブを迎えに行く途中、飛行機墜落事故に遭遇する。その時に羅列された数字のわからなかった部分が災害の緯度と経度を示している事に気付き、予言に確信を持つ。ジョンはルシンダの先生に会いに行き、ルシンダが行方不明になった時倉庫でも数字を書いていた事、また彼女がヤク中で死んだ事を聞く。そして彼女の娘ダイアナに会いに行く。ダイアナにはアビーという娘がいた。ダイアナは一度は拒絶したものの、地下鉄事故の日付と犠牲者数がジョンの提示した「よげんのしょ」と合致していることから、彼に協力する。

「よげんのしょ」に書かれた最後の文字は「33」。それが「EE」で「Everyone Else(他全員)」であることがわかったジョンは、自らが研究していた太陽フレアが地球に到達するという見解を導き出し、同僚の教授に報告する。それは前生命体を滅ぼすには充分な災害だった。ダイアナは洞窟に逃げようと催促する。だがジョンはルシンダが隠れた倉庫に行き、そこに消えかかっていた数字を発見する。それは座標を示していて、ルシンダの住んでいた部屋だった。ジョンはそこへ向かおうとするが、ダイアナは子どもらを連れて一足先に洞窟に向かっていた。

途中ダイアナはガソリンスタンドに寄る。そこで緊急放送を流しているTVに気を取られているうちに、不審な男たちが子どもらを連れて車で去って行く。一方ジョンはルシンダの部屋へ行き、そこで子どもらと不審者を発見する。不審者は空から降りてきたUFOに乗り込み、子どもらにも乗るようテレパシーで催促する。ジョンにはその声が聞こえず、聞こえない者は乗る資格はないと言われ、ケイレブと別れを告げる。ケイレブとアビーを乗せたUFOは出発し、そこでジョンは泣き崩れる。目を覚ましたジョンは家族に会いに行く。そしてフレアが地球を襲い、全ての生命は消え去る。

子どもら二人を乗せたUFOは金色の野に降り立っていた。そして二人は『この木なんの木』に向かって走って行った。


以上が表面的なストーリー。ちょっと長いでしょ?そう、かなり詰め込んであるんですよ、この映画。あちこちに伏線を張っておいて、結局回収できずに終わってるという、ちょっと寂しい脚本なんです。

物語のテーマは何なのかって言うと、劇中でも出てきますが、世の中「決定論」で全て進行している、ということである。というのはちょっと違ってて、もちろんそれも重要な要素として扱われているんだけど、それはプロット上、シナリオ上の要素の一つであって、物語を通しての作り手の言いたい事、表現したい事ではないですよね。多分。
じゃあ何なのでしょう。地球環境を大事にしよう? 大事にしたところで太陽フレアは免れません。 宇宙人はホントにいるぞ? わしの近所にいます。 ・・・じゃあなんだろう。よく考えると、これは親子関係、もっと言えば人とのつながりについて描いた映画なんじゃないかなあ、と思うんです。

どの辺りがそうかっていうと、まずジョンとケイレブの関係です。最初は仕事優先気味だったジョンと、ナショジオに夢中だったケイレブ。軽薄というか、ちょっとギクシャクした感じでした。「俺達は上手くいっている」というのも、言葉だけにすぎない雰囲気でした。しかし災害が迫ってくるにつれ、ジョンはケイレブを優先的に考えるようになり、お互い信頼しあうようになります。
次にジョンと父親。これも同じで、序盤は仲違いしたままの状態ですが、ラストで和解しています。それとダイアナとアビー。ラストでダイアナはアビーを追いかけるあまり、事故に遭い死んでしまいます。
それともう一カ所、地下鉄のシーンです。あの場面でジョンが赤ちゃん連れのママにだけ「列車から降りろ」と指示します。このシーンがなんであるかって言うと、ジョンの親子に対する考えを表したんです。こういった危機に何を優先するか、誰を先に救いたいか、というジョンの感情を表現するためにこのシーンにこのセリフを挿れたんでしょう。言ってみれば制作者側のテーマがここに内包されているように思いました。

ただ、シナリオがちょっと弱いんで、伝わりにくいです。どうして宇宙人は人間を助けるのか、それ以前にどうして「よげんのしょ」を書かせたのか。書いたって意味ないじゃないか。はたまた何故ルシンダは自殺したのか。なぜフレアを遅らせることができたのか(セリフで言っている)。後半にケイレブが書いてた数字は何? など、色々あります。

でも、映像は凄いですよ。飛行機の事故と地下鉄の事故、それとラストのフレア。これは一見の価値ありです。


ノウイング  amazonです。

theme : 映画レビュー
genre : 映画

肉片の恋(ヘンテコ映画特集)  血は湧かないけど肉躍る

先日映画館に行ったら、平日だってのに凄いたくさんお客さんが並んでいました。
比較的若いカップルばかりだったので、わしと同じ『タイタンの戦い(Clash of the Titans)』目当てじゃないなってのはなんとなくわかったけど・・・。ううん、やっぱ『アリス・イン・ワンダーランド (Alice in Wonderland)』でした。
人気あるんですね。やっぱ面白そうって思うのかな? それともエロ目的? あ、『不思議の国のアリス』ってそもそも少女愛ですからね。作者ルイス・キャロルは少女のヌード写真をたくさん所持していましたし。公式には否定されているかもだけど、わしは彼がロリコンだって思ってます。別に、ロリコンだからって嫌いとかダメってことじゃないですよ。

ヤン・シュヴァンクマイエルという監督の『アリス(Něco z Alenky)』という映画があります。この映画は直接的じゃないけどエロくてグロくてロリコンでっていう、まさにわしの中での『不思議の国のアリス』のイメージになってる映画です(いずれ紹介したいな)。
で、今日紹介するのは言いづらい名前ですがこのヤン・シュヴァンクマイエルさんの監督作『肉片の恋(Zamilované maso)』という短編作品です。『Zamilované maso』は恋する肉という意味です。MTV向けに作られた作品だそうです。
goo映画(ものの一分で終わるよ)

まあどんな映画かってのは観ればわかるんですが、スーパーで見かけるいたって普通の肉片2切れが、ラジオから流れる曲に反応し、互いにペチペチと音を立て、抱き合い踊りあい、腰を動かすといったシュールな内容です。まあ直後にあっさり油で揚げられるんですが・・・。



ものすごく単純にできていて、それでいてエロくてグロくてさわやかで、儚くて切なくてどこか可笑しい。たった1分でこれだけ形容できるっていいですね。まさに映画の醍醐味です。
まあ肯定的に醍醐味ですって言ったけど、何度も書いてますがそれが逆に怖いとこでもあるんですよね。何を感じるかは自由ってとこがね。これ観て肉が食えなくなったってのも困りますし。そういうの、作り手側じゃコントロールできないですからね。

この監督は食べる行為が嫌いで、作品ではその行為が必ず醜く描かれます。でもこの肉片は醜くも愛らしいですね。え?グロい?ははは・・・。
さ、明日から平日ですね。早く寝ようっと。


ヤン・シュヴァンクマイエル 短編集  amazonです。

theme : この映画がすごい!!
genre : 映画

プロフィール

ホモルカ

Author:ホモルカ
札幌在住。おとこ。
ボケ防止でブログ開始。
ボケ担当。
学校で映画を勉強。
でもブログは好き勝手書くよ。
映画について質問あればコメントくださいな。

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