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ぼくとママの黄色い自転車 痴呆患者を否定した稀有な映画

ぼくとママの黄色い自転車
ネタバレします。










今日は久しぶりの邦画で『ぼくとママの黄色い自転車』について書こうと思います。主演は、ええっと、武井証ってのか。それから父親役に阿部サダヲ、叔母さん役に西田尚美(わしの好きな)。監督は河野圭太、脚本は今井雅子です。とにかくネタバレしちゃいますが、よろしく。ちなみに文部科学省選定作品です。
細かい事は→goo映画(ネタバレなし)


ストーリー(ちょい箇条書きっぽい)
冒頭、黄色の自転車に乗った男の子(大志)が何やらウキウキして自転車をこいでいる。ちょうどスタジオジブリの自転車ダッシュシーンみたいな感じ。坂を下り、土手を下り、道路交通もほとんど無視。そのまま家路につき、ポストから手紙を出す。ここで
「来てたーー!」
手にした手紙を開く。それは母親からだった。室内で飼っている犬がジャレてくるが、それよりも手紙を読む大志。内容から察するに、毎週母親と文通しているようだ。中にはパリでの母親の写真が入っていた。今はパリに住んでいます、という事らしい。読み終えた大志はそれを古い手紙でいっぱいになってる保管箱にしまう(エッフェル塔の箱)。そして返事を書く(ナレーション)。黄色キラキラ草(ママがそう呼んでいる)とママが選んでくれた黄色い自転車の話。
父親が仕事なので叔母さん一家(夫と娘)で晩飯を食う大志。だが大人は大志の母の話題になると気まずそうにする。大志の母はパリに勉強に行ってるので、帰って来れないという。いかにも怪しいので色々調べていくと、小豆島にいるという結論にたどり着く。大志は自転車に乗り、犬も連れ、父には行き先を言わずに小豆島を目指した。
横浜から向かうことになるので、当然新幹線を利用するつもりだったが、一人なのか聞かれて逃げ出してしまう。そこで岡山運送というトラックの荷台に潜り込むが、途中で運転手の姉ちゃんに見つかってしまう。だがなんとなく仲良くなり、新神戸まで乗せてもらう。降ろされるという表現もあるが、それは後述します。その次は神戸で世話してくれる親子に出会い、一晩泊めてもらったり、ヒッチハイクを繰り返したりでフェリー近くまで辿り着く。しかし思わぬ台風で酷い目に遭い、倒れてしまう。そこへ自殺をはかってた老人(柄本明)に出会い、保護される。老人は自殺をするべく海岸にいたが、大志の連れていた犬に邪魔されて取りやめになったのだ。その晩老人と大志は語り合う。なにかと励ます大志に、老人は恩を感じた。
その時横浜では、大志が行方不明になったのではと皆大慌てになっていた。父親はTVで溺死した子どものニュースを見てドキっとしたが、大志じゃないとわかって安心した。その時電話が鳴る。大志を保護したという男からだった。ほっと胸をなでおろす一家。詳しくは後述。
翌日フェリーに乗り、小豆島に着く。手掛かりをたどり、母親と対面する。父親も来た。だが母親は大志が想像している姿とはまるで別だった。彼女は病で記憶が消え、意識もなく呆然としているだけだった。いくら大志が呼びかけても反応しない。
「こんなのママじゃあない! 違う人だ!」
グレる大志。そこへ職員がノートとテープを渡す。ノートには記憶が薄れていくまでの日記。テープには大志への思いを吹き込んだ母親の声が入っていた。気を取り直してもう一度、母親の元へ行き、黄色キラキラ草的なものを見せる。それでも無反応に大志はガッカリし、帰ろうとしたが、そこで母親の手が大志の腕に触れた。動いたのだ。大志の存在に反応したのだ。驚く職員と父親。「僕だよ、ママ、わかったんだね」
父親と一緒に帰る大志。許してくれるか? との父親の問いに、「僕はパリにいるママより、小豆島にいるママが一番好き」 と答える大志。
暗転し、さだまさしの歌が入る。


感想
はい、ということで、率直に言うと酷い映画でした。これほど酷い映画は久しぶりに観ました。胸糞悪くなるというか、観ていて恥ずかしくなりましたし、それを通り越して苛立ち、さらにそれを通り越して失笑まで行きつきました。大志は新神戸で降りたのに、わしは最終駅まで行ったことになります。そう、駄作という名の電車に乗ってです(このネタ前も使ったな)。
じゃあ何が酷いのかというと、基本的に映画の文法から逸脱しすぎているということです。これはどういうことかというと、全部セリフで説明してしまっているということ。例えば、大志が小豆島に辿り着きます。その時に手掛かりとして写真と景色を見比べますが、その度に「ここにあったんだ~」とか「ここか~」と言います。それは全部余計です。必要ないんですよ。写真と景色のカットを繋げればいいだけなんです。実際繋げてたじゃあないですか。そこに余計な説明を入れて、過剰にしてしまっている。例の、テレビ向けの演出ってやつです。「きてたーー」とか「これか~」とか「ここか~」とか「あれ~?」とか「すご~い」とか「おなかすいた~」とか「きもちいい~」とかは基本的に一人で言わせちゃダメですよ。それは画で見せればいいんです。それが映画の文法だし、リアリズムです。
それから、無茶苦茶な展開ね。なんの脈絡もなく次々と人物が入れかわり立ち替わり、でも彼らの役割は一緒。これもダメですよ。映画はできるだけ省かなくてはいけない。同じような内容のシーケンスなら繰り返してはダメ。これは当たり前というか、一年生で習うことです(ていうかそれ以前に理解できると思うが)。省略の演出ですよ。元はモンタージュとも言いますかね。モンタージュってなにもガイ・リッチーがやる高速カット割りのアレだけじゃあないんです。広い意味で映画はモンタージュです。時間を短縮して映像にするんです。この作品でももっともっと短縮できるはずです。保護される三つのシーン、一つにできるはずです。内容が同じだから。一つにまとめて、メッセージもそこにまとめるなりなんなりしてスマートにしないと、今回のように間延びします。観ようによっては泣かそう泣かそうとしていると思われるかもしれません。
この二点は監督の責任でもあるのですが、脚本の責任が大きいです。これもテレビや連続ドラマの演出で、映画のそれでは全くありません。この脚本家は映画をもっともっと勉強しなくてはいけません。

それから、トラックの姉ちゃんがこんなガキを一人新神戸で降ろすとか、見知らぬ男の家にいると電話で聞いて安心する父親はいないだろとか、色々あります。交通安全も守れてないし、文部科学省選定にしては問題ありすぎるだろって感じですね。ただこれらはホント細かいところです。だから思い切って目を瞑りましょう。百歩譲って、いや千歩譲ってスルーすることにしましょう(できないけど)。それでもわしは、これだけは絶対にダメだと思う点が三つありました。それはどこか。

一つ、大志が母親の元に行こうと決心した要因が曖昧すぎる、ということです。
これは映画の全体としての、テーマを語る上での問題でもあるので書くのがちょいと面倒になるが説明します。作品では毎週母親から手紙が来ているので、何か特別な事がない限り、改めて会いに行こうという気持ちは起きないはずです。じゃあ何故会いに行ったのか? リスクを冒してでも旅に出たのか。物語では写真がきっかけとなっていました。パリにいる写真を怪しく思い、調べると小豆島だった、という部分です。もちろんそれも確実な情報じゃありませんので、リスクは相当なものですが、とりあえず判明したってことにして、それで会いに行ったのです。でもこれは変ですよ。理由になってない。自分から会いに行きたいって思ったわけじゃあないんです。以前から会いたいとは思っていたが、会える場所にいるから行った、となります。ここが問題なんです。要するに事が起こって向かったわけではないということです。だから物語の最中、途中で帰ったら良いじゃんと常に思ってしまいます。一旦帰って、また会いに向かえばいいじゃんと。要するに推進力が全然ないんです。この時点では病気かどうかも大志はわかっていないので、時間に縛られているわけでもありません。ましてや国内にいると思っているのだから、しっかり準備をして行けばいいと思えちゃう。これはロードムービーの怖いところですねー。帰ったらええやん、って客に思わせちゃあダメなんですよ。劇中ではしょうもない困難がたくさん待ち受けています。それに散々飲み込まれていく大志にこの映画を引っ張る力は全くないです。役者の力量もですが、脚本、演出がダメダメだからです。
だから例えば、大志が母親に会いに行きたいと思うようなシーンを挿れればいいんです。参観日があって、友達に母親のことを冷やかされて悔しい思いをするとか、父親が新しい女を連れてきたとか、西田尚美が誘惑してきたとかです(願望)。そうすれば、母親に会いに行くという必然性が生まれるので、ロードムービーとしての物語の推進力も増します。

二つ、何故犬を連れていったかがわからない、です。
これはもう最初っから気になってたが、本当にわからない。冒頭でガキがチャリンコに乗って現れるが、犬は連れていない。犬は家にいるのだ。父親が仕事に出ていても、留守が出来ているということになる。じゃあ何故連れて行ったか。冒頭で家に入り、手紙を読む。犬がジャレてくるが、大志は相手にしない。愛情があれば、犬を抱っこして手紙を読むなりできるし、そういう演出をするはずだ。ここから察するに、愛犬ってほどでもないみたいだ。じゃあ何故連れて行ったか。新幹線に乗る予定だったらしいが、そのへんの面倒は理解していなかったのだろうか。いとこの女の子も、年上なのに理解していなかったのだろうか。そもそも犬を連れて行かせるというシナリオに何か意味があるのだろうか。映画を注意して観ていたが、何も必要性を感じなかった。後半で老人を呼ぶぐらいだったが、そんなの犬じゃなくても通行人とかに託せば変更は可能である(脚本上の問題として)。これは要するに『ハリーとトント』的な事をやりたかっただけなのだろうか。やりたかったけどエピソードが思いつかなくて空気になっていたのだろうか(時々鳴くが)。
もし『ハリーとトント』をやりたかったというのなら、設定から変更しなくてはならない。『ハリーとトント』は妻に先立たれた老人の性格を猫をつかって上手く表現している。猫のトントは半ば自立していて、ハリーとは同居人のような関係。ハリー自身もそんなに孤独を感じてはいないのだが、周囲から見れば彼は一人寂しい孤独な老人。トントはそのギャップを説明すると同時にハリーの思いの吐露のための存在だった。だが本作ではそもそも孤独とも無縁だし、そこをテーマにしてもいないので描く必要がない。思いの吐露という面でも、喋るに値するほどの心情もないので必要がない。しょうもない説明台詞に理由をつけるためというのも違う。しょうもない説明台詞は理由以前に、映画としての文法からかけ離れているから。他に劇中で犬が表現していた事は、何もない。例によって、たんなる記号になっていたということだろうか。いや、記号ならまだいいのだ。記号なら説明しなくても気にならないからだ。犬はリスクであり、リアリティの問題でもある。だから説明がない分、シナリオ上連れて行くのは間違いだと思う。
これも上記のように、大志が友達からのけ者にされていたり、孤独感を感じているという描写があれば納得できる。それとも犬を好いているという描写とか。手紙を読むときに一緒に読んでいれば、少しは説明になっただろう。

三つ、どっちつかずなラスト、です。
疲れたんで簡単に言いましょう。この映画のテーマは、少年の成長か、母親との愛か。そのどちらかです。わしにはどっちかわかりません。ていうかどちらも描けてないんです。
まずは少年の成長。一つ目で書きましたが、能動的に会いに行ったわけではありません。会える場所にいるらしいから行ったのです。要するに大志は窮地に立たされているわけでもなく、いたって平凡で、乗り越えるべき困難が迫っていたわけではありません。それでも人間、旅をすることで色々学びます。『華麗なる週末』(過去記事)じゃあないけど喧嘩をしたり、女の人に魅力を感じたり、役人の実態を見たりです。あれ? でもこの映画、なんかあったっけ? なんもねーよ! 無責任なトラックの姉ちゃんに途中で降ろされて、自殺ジジイに監禁されて、凄いネガティブすぎやしないか? 学んだというより、トラウマになったんじゃあないか?! まあいいや、一万歩譲って学んだ事にしよう。はい、学びました。母親との対面です。思っていたのと違う。こんなのママじゃあない! 一度はそう言ったものの、ママは反応してくれた。反応しなかったらこのクソババアって思ってたけど、自分の願う気持ちが通じたのか、奇跡は起きた。そして少年は目の前の人を母親と認めた。・・・まあ、成長かもしれない。長旅に大変だったろうし、映画では描けてないけど一人旅で学ぶことは多い。船の上での父親との会話。そしてさだまさしの歌。 って終わるなよ。そこで終わるなよ。少年の成長を描くんなら、その後のシーンをもう少し挿まなきゃダメでしょう。家に戻って、いとこの女の子に誘惑されるとか、西田尚美に誘惑されるとか、甲本雅裕に誘惑されるとか。成長した後を見せなきゃあ意味がない。ほんの5分で良い。いや、1分でいいです。それがないから、成長がテーマだと言えないんですよ。
じゃあ母親との愛か。だとしたら、ひどい話です。だって、こんなのママじゃあない! って言っちゃってるんですよ。それで奇跡が起きて取り消しになったが、通常は起きえない事でしょ。だって、職員や父親が驚いていたんだから。て言う事は、母親との愛は薄皮一枚だってこと。ほんの些細な事ですぐに破けてしまう。あるいは他の似たような境遇の家族に、お前らのは親子の愛じゃあないと宣言しているか。だからこの映画を観て感動したり泣いたりしてる人っていうのは、実は物凄く残酷で、通常の患者を否定していることになる。わしはそれが物凄く不愉快だし、恐ろしく感じた。ただなんとなく感動的なBGMを流して雰囲気だけ作ろうとしているが、言っている事は差別丸出しのメッセージだと言う事に、どうして誰も気付かないんだろう。家族が脳の病気で倒れて反応がなくなったからって、家族じゃあないとどうして言えるだろう。どうしてその残酷なメッセージをこんな少年に託したのだろう。作り手はあまりにも愚かである。


まとめ
映画としてあまりにも崩壊している。わしは前述のようにとあるイベントで観たのだが、上映後思いっきり「酷い映画だな」と言ってしまった。イベントスタッフに思いっきり聞かれたが、逆に気持ち良かった。監督の河野圭太、脚本の今井雅子はもう少し映画をリスペクトしなくてはいけない。調べたが河野圭太はテレビ出身みたいだ。しかも三谷幸喜組かよ。三谷幸喜も映画監督としてはかなり酷いからなあ。今井雅子も、ああ~って感じだな。正直ろくな脚本書いてないな。どうやってのし上ってきたんだろう。疑問だ。主演のガキ子供も酷かった。まあ脚本とか演出のせいもあるのだろうが、それでも酷い演技だった。子役で酷いと思ったのは久しぶりだ。子役は情状酌量の余地がありますからな、しょうがないとしましょう。阿部サダヲはいつも通りホントに役者なのか疑ってしまった。顔芸専門だからお笑いの人かテレビの人だとつくづく思う。
良いところも挙げなきゃな。さだまさしの歌はやっぱ力ありましたね。なんていうかアレだけで泣かせる力持ってます。近距離パワ―型ですね。もう映画アレだけでいいんじゃね? 歌と適当なカットバック。あ、それともう一カ所、トラック姉ちゃんが彼氏を降ろして発進するところ、その彼氏が追いかけてきて、荷台の大志に初めて気付いたときのシーンは良かった。それだけですね。


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ホモルカ

Author:ホモルカ
札幌在住。おとこ。
ボケ防止でブログ開始。
ボケ担当。
学校で映画を勉強。
でもブログは好き勝手書くよ。
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